やまと通信   12月号  
                          Vol.19
〜 理 由 な き 喜 び 〜
 
 以下の文章は、ある中学受験用の問題集からの引用です。書かれた方は、谷川俊太郎さんです。是非々々読んでみて下さい。
 
 ・・・今ではたとえ長靴をはいていたとしても、私はぬかるみを避けて、固い地面を探す。だが子どもは、ぬかるみを見れば当然のようにそのほうへ突進し、飽くことがない。(中略)
 ぬかるみにうつつを抜かしているとき、子どもは着ているものが汚れることや、あとになって長靴を洗わねばならぬことを気にはしていない。子どもは文字通り一所懸命に、その瞬間を生きている。他のことに心を向けているゆとりが全くないほどに、その喜びは深く全身的なものなのである。結果を考えろ、親の苦労を、あるいは他人の迷惑を考えろといったところで、通じようがない。子どもにはそのとき、いわば未来もなければ、社会もない。だから、子どもは子どもさ、人間よりはけものに近いんだとおとなは言う。だが喜びという感情は、本来そういうなりふりかまわぬ、自分勝手な、むしろ野性的と言っていいような心の状態だったのではあるまいか。
 そのことにおぼろげながら感づいているからこそ、おとなは子どものいたずらを大目に見る。ぬかるみがあるのに、それに見向きもせぬ子どもがいたりするとかえって心配になったりする。ぬかるみに踏みこめば叱るくせに、そうしない子どもには、子どもらしくないと断罪しかねない。そんな矛盾した心の動きの中に、私たち人間の喜びというものの見方がかくされていると私は思う。(中略)
 喜びに限らないが、おとなの感情にはいつも意味が、理由がありすぎる。と言うよりも、おとなは自分の感情の理由を詮索しすぎると言うべきなのか、ひとつひとつのささいな理由を通して、感情というものは私たちの生きていることそのものにむすびついているはずなのに、その結びつきをあえて断ち切ろうとしかねないのがおとなだ。喜びに理由があるなら、私たちは幸せになるために、数限りない小さな理由を探し求めざるをえなくなる。理由がなければ喜びを感じられないから、どんな喜びにもその理由があると思いこむ。そして喜びをその理由に見あった小さなものにしてしまう。
 ぬかるみで遊ぶから、草原の上に立ったから子どもは喜ぶのではない、喜びはすでに子どもの身内にみなぎっているのだ、ぬかるみや草原に足や手で触れること、すなわち世界に自分の肉体で触れることが喜びを目覚めさせ解放する、それはひとつの爆発だ。そのとき心は体を通して、しっかりと世界に結びつく、そこに生きることの最も根元的なかたちがある。おとなの喜びは子どものそれに比べて、遠慮がちなものにならざるをえないが、その根はひとつだろう。絵本を作るときも、子どものための歌や物語を書くときも、子どもの喜ぶ姿を思い描くことで、私はより深く生きることを識(し)りたいと思う。  (引用終わり)
 
 どうですか、最近お子さんの笑顔をご家庭で見ましたか?
 または、最近保護者のみなさん自身が心の底から笑いましたか?
 谷川さんがおっしゃっているように、喜びや幸せというものはどこかにあるわけではなく、そもそも私たち人間の内にみなぎっているものなのでしょうね。そして、何かがそれらを目覚めさせ、解放したときに、私たちは喜びや幸せを感じるのでしょうし、心と頭が空っぽになった瞬間にこそ、喜びや幸せは解き放たれることが出来るのではないかと思います。ところが、現代の日本では、おとなも子どもも常にゆとりなく、せわしなく生きいますから、なかなか喜びや幸せというものが解き放たれることが少ないように思います。
 ですから、是非ともご家庭だけでは、子どもたちの緊張がほぐれるように、心と頭が空っぽになれるようにしてあげてほしいものです。
 
 心と頭が空っぽになれるような余裕がありつつ、心と頭にすてきな刺激を与え、なおかつ、この受験社会にも対応できるような、そんな新しい学校を創りたいなあと思う今日この頃です。
 
 今月はこのへんにて。
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