やまと通信   1月号
                           Vol.20
〜 惚(ほ) れ る 〜
 
 今月は、灰原健次郎さんと鎌田慧(さとし)さんの対談を本にした『危ない学校 希望の子育て 楽しい関係をいかに創るか』(光文社)からの引用をお読みいただきたいと思います。
 
灰谷 さっき私は「惚れる」ということを言いましたが、先生が子どもに惚れなくなったのではないでしょうか。それは親にもいえることです。子どもに惚れる親と教師がどれだけいるか、ということです。偏差値の高い学校へ入れたいという価値観だけで子どもを見たって子どもに惚れることはできないでしょうね。そういう大人を子どもは信用しません。
鎌田 でも、そういう価値観に子どもをのせて勉強させることがしあわせにつながるんだと思いこんでいる親が多い。いやそういう親が大半です。
灰谷 そうですね。偏差値なんて関係ないんだ、有名な学校へ行っても子どもが幸せになるとは限らないという話をしても、お母さんは「そんなことを言って」と言い返す。だけど、そういう考えを捨てないと人間教育なんか成立するはずがない。よく講演会で話をすると、決まって「うちの子が評価されていない」とか「学校の指導に問題があるのではないか」という声が出てくる。そこで学校って何でしょうか、学力って何でしょうか、と問いかけてみるんです。学校のテストなんて七割が記憶力の評価ですよ、それがあなたのお子さんの能力のすべてですかと言うと、うなずいている。逆にあなたのお子さんは何事もなくきちんとしていて、成績もいいですよと言われる方が心配ですよってね(笑)。
鎌田 お母さんたちはテストの結果とか通信簿の評価に一喜一憂しすぎますよね。学校の成績が上がっただの下がっただのと、あまりうるさく言わない方がいいと思います。ただ、怠けてばかりいる、ということもありますから、いちがいにはいえませんけど。全然勉強しないでゲームとか漫画にばかり夢中になっているようだったら、子どもの生活パターンを修正する方向に持っていった方がいい。それが子どもに対する親の責任です。
灰谷 その子なりにやっていれば結果がどうであってもいいじゃないの、というのがわたしの考えです。本当に子どもの感性を引き出し、学ぶ喜びを与えている上での成績であれば別ですけど、記憶力でもって試されるペーパーテストなんかで人間の本当の能力が測れるわけがない。単に機械的な記憶録テストのための勉強を強いられると、ものすごく苦痛で、子どもでなくたって逃げだしたくなります。それが人間というものです。だから成績が悪いというのは子どものせいじゃない場合が多い。
鎌田 学校が本当に学ぶことを面白がらせるような授業をやっているかどうかとか、子どもが積極的に勉強するような家庭環境になっているのかどうかとか、子どもの学習意欲をかき立てる条件が整っているかどうかということが問題なんです。そういう条件を全く無視して、勉強せい勉強せいと頭からがみがみどやしつけられたら、やっぱり反発したくなるでしょう。
 
 この少し長い引用からいろいろなことを考えさせられました。
 ひとつは、たしかに偏差値のみを唯一の価値基準にして人、特に子どもたちを評価してはならいということを確認しました。ただ、今現在も以前学歴社会ですし、暗記中心のテスト以外で人が人を合理的に評価するすべがないですよね。しかも私たち小市民がこの学歴社会を変え、よりよい評価の方法を見つけだすことは難しいと思います。
 ですから、灰谷さんや鎌田さんのように能力がある人が単純にこの学歴社会を批判されても、私たち一般市民は困ってしまいます。彼らには学歴社会を批判するのではなく、それに変わりうるものを創っていただきたいなあと思います。
 しかし、その一方で、私たち一般市民もできる限り、学歴のみで他人を見ない、ましてや自分の子ども、その友達を学歴のみで判断するような心貧しき市民にはならぬよう日々自分自身に言い聞かせる必要がありますね。
 そのことは少しおいておきまして、今月のテーマであります「惚れる」ということについて少し考えてみたいと思います。
 
まずは「惚れる」という言葉を辞書でひいてみますと、
 
ほれる【惚れる・恍れる・耄れる】
〔自ラ下一〕ほ・る〔自ラ下二〕
1 茫然となる。ぼんやりする。放心する。
2 年老いて知覚や感覚がにぶくなる。もうろくする。ぼける。
3 人、特に、異性に心をうばわれて夢中になる。一心におもいをかける。恋い慕う。
4 人物や物などに感心して心ひかれる。心酔する。「気っぷの良さに惚れる」
5 (他の動詞の連用形に接続して)そのことに夢中になる。うっとりする。
  「見ほれる」「聞きほれる」*1
 
ということなのですが、
単刀直入にお聞きして、
 みなさんはご自分のお子さんに「惚れていますか」?
 
 わたしは正直言いまして、まだまだ塾生のみなさんに「惚れている」というところまではいっていないなあと思います。
 「知を教しうるに情を持ってすべし」という言葉があります。これは、物事を教えるに当たっては、教えようとするのではなく、情を持って子どもたちに接し、見てあげれば、おのずと子どもたちは知を学ぶようになる。逆に無理に教えようとすれば、反発され、全くためにならない、というようにわたしは解釈しております。
 今のところ他の塾や学校よりは情を持って生徒たちと接することが出来ているかなあとは思いますが、まだまだ「惚れる」というところまではいっていないかなと思います。
 なぜか。
 それは、まだまだ生徒たちと「勉強」「テスト」というものでしかつながれていないからなんだと思います。人に「惚れる」ということは、自分よりもすごいものをその人が持っているから「惚れる」のであって、そうでなければ「惚れる」ことは難しいですよね。
 つまり、「勉強」「テスト」というフィルターを通してしか生徒のみなさんを見ないとすれば、なかなか自分よりもすごい生徒さんはいないものです。(ちょっと鼻につく言い方ですが、お許しを・・・)
 そうではなく、彼・彼女たちのいろいろな面を見ることができるならば、必ずわたしよりもすばらしい、すてきな面がたくさんがあるはずですから、きっと「惚れる」ことができと思います。
(でも、それは塾ではほぼ無理なことです。週に数時間、しかも「受験」と「テスト」のためにのみ会っているわけですから・・・)
 
 しかし、親というのはわたしとは違いますよね。「勉強」「テスト」以外の面を見ることができますし、そちらで評価してあげることができのです。
(すばらしいことですね。すてきなことですね。)
 
 子どもたちはもうすぐ社会にでていきます。すると、そこではことあるごとに、学歴社会の価値観にさらされて生きていかなければなりません。これは当分避けては通れないことだろうと思います。
 だからこそ、家庭ではどうか「勉強」「テスト」以外の価値観で子どもたちを見てあげてほしいと思うのです。
 子どもたちは純粋です。否が応でも、学校で「勉強」「テスト」というものを意識させられ、それらができることこそ人間にとって大切なことなのだというようなことを植え付けられてしまいます。
 だから、ほとんどの子は「勉強ができるようになりたい」と思っていますし、そのためには「もっと勉強しなければならない」ということも重々分かっているのです。いつも心の奥底では「勉強」「テスト」に追いつめられているかもしれません。
 そんな子たちを家でまで追いつめてしまっては何ですよね。
 
 大きく、易しく、ゆったりと子どもたちを抱きしめてあげてくださいね。

*1Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) © Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)©小学館 1988
 Home   やまと通信の目次へ