やまと通信    9月号 
                                         Vol.28
    〜 なぜ、いけないのか? 〜
 
 子どもや生徒たちに「どうして、〜しなければならいの?」「どうして、〜してはいけないの?」と聞かれ、答えに困ることがあると思います。
 そういった質問の中でも特に、「どうして、人を殺しては行けないの?」というものがあると思います。
 この質問はたしか昨年あたり、筑紫さんのテレビ番組で高校生から出され、一大社会現象にまでなりましたよね。
 私もそれまでは漠然と「してはいけないから、してはいけない」と、月並みな答えしか考えていませんでした。または、人間は、法律などで「人を殺してはいけない」と決めておかなければ、次々に殺し合ってしまう生き物だから「人を殺してはいけない」と決めているのだと考えていました。
 しかし、もう少し何かはっきりとした答えがあるような気がして、「どうして、人を殺してはいけないのか。」ということをことある事に考えていました。
 
殺されたくないから、殺さない
 そしてある時その答えがなんとなく分かったような気がしました。
 それは、「自分は殺されたくないから、他人も殺さない。殺してはいけないのだ。」ということです。
 つまり、自分が他人を好きなように殺してもよいということは、逆に他人も好きなように自分を殺してもよいということになります。そこで、まずは自分は他人を殺したり傷つけたりしないということを宣言し、その代わりあなたたちも私を殺したり傷つけたりしないでくださいねとお願いしているのではないでしょうか。
 それを「契約」「約束」と私たちは呼んでいるのだと思います。
 人間以外の動物たちはその「契約・約束」というものは遺伝子の中にほぼすべて組み込まれているので、あらためてお互いに「契約・約束」を交わす必要もないし、できません。また、その遺伝子の中には同族のものは殺さないというものが必ず組み込まれているので、同族間での殺し合いはありません。
 ところが、人間はDNA内の遺伝子の他にもう一つ、「言葉」という遺伝子を持ってしまったがゆえに、素晴らしい文化や芸術、文明などを築けた反面、同族を傷つけたり殺したり、だましたりするなど他の生物にはないようなことをもしてしまうようになったのでしょう。
 そこで「契約・約束」としての法律で人を傷つけたり、殺したり、だましたりしてはいけないと決め、もしその約束を破った場合、罰を与えるとしたのでしょうが、昨今のあの無差別殺人や本当にちっぽけな欲のためにいとも簡単に人を殺してしまっています。
 
「自分自身を愛する」
 どうしてでしょう。
 罰が軽すぎるのでしょうか?
 どうもそうではなさそうです。すでにいろいろな研究の結果から罰を重くしても、犯罪の抑制には一定の効果しかないことが分かっているそうです。
 では、どうしたらそのような無差別殺人などが起きないようになるのでしょうか?
 それはおそらく、「自分を愛する」ことができるようになればよいのだろうと思うのです。
 無差別殺人やちっぽけな欲のために人を殺してしまうような人たちも、殺人をすればそれなりの罰を受けることや、今後の人生が幸せなものにはならないということは分かっているのだと思います。それなのに罪を犯すということは、自分というものを、自分の人生というものをかけがえのないものだと感じることができないのでしょう。
 私たちは子どもや生徒たちに勉強ができるようになってほしいと願っているわけですが、それ以上に、他人に迷惑をかけない、ましてや犯罪者にだけはなってほしくないと願っていると思います。
 そう思うのでしたら、子どもたちにはただ言葉で他人に迷惑をかけないでね、犯罪は犯さないでね、とい言うだけはなく、子どもたちにより多くの「愛」を与え、子どもたちが自分自身を、そして願わくは他人をも愛し、大切にできるように育ててあげたいものですね。

 

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