やまと通信     11月号
                                   Vol.30
〜 一 所 懸 命 〜
 
 先日NHKの番組で、奄美大島・大島高校の応援団についての放送を見ました。その高校では伝統的に、7つの地域ごとに応援団を結成し、体育祭のときその応援を競い合うという内容です。
 本当に何気ない、小さな日本の町の、普通の高校でのことなのですが、それぞれの応援団長の人間性の違いとそれぞれの応援団員とのかかわり合い。そして、現代という日本の社会とその中で生きている子どもたちが、伝統と現実の狭間で揺れる心。実に刺激的な番組でした。
 
一所懸命
 そういった人間関係や生徒たちの成長ぶりというものも興味深かったのですが、彼女、彼たちの一所懸命さにとても大きな衝撃を受けました。
 その中でもある3年生女子の言葉がたまりません。
「優勝(応援賞)や優秀賞などは他人が決めることだから仕方がない。そんなものよりも、明日、みんなでいままでやってきたことを全部出せ、感動というか、自分で納得できれば最高です。」
というようなことを前日の最後のミーティング時に、涙ながらに言ってました。最近スポーツニュースでこれと似たことを聞きませんでしたか。
「首位打者や盗塁王というのは他人との比較なので、私にはあまり意味がありません。大切なのは、自分自身が常に最高のプレーをしようと努力していたかどうか。自分で自分に満足できるようなことをしたかどうかが大切なのです。」
と、あのイチロー選手が先日インタビューで言ってたのです。
 
 世界最高の野球選手とある一高校生から期せずして同じ言葉生まれた背景には何があるのだろう、布団の中でしばし考えました。
 おそらく彼女とイチロー選手は本気で、一生懸命努力した人たちだったのだろう。しかも、それはたった一人だけの努力ではなく、何人もの友人たちと限界までともに努力した人たちだったのだろうと思ったのです。さらには、その努力が自らの意思によって続けられたものだったのだろうとも思いました。(ただし、始めるきっかけはともに半強制的なものだったかもしれませんがね。)
 じつは先日ある生徒たちから、「何か本気でやりたいの。で、今一番やりたいと思うのはダンスだから、船橋か柏あたりで教室探すの手伝って。」と言われました。しかも「厳しくて、忙しいくらい毎日一生懸命やりたいの。」とも言ってました。
 そのとき私は、「そうか、今の子どもたちは何か本気でやりたいんだなあ。」と、思うと同時に、「いやまてよ。それは何も子どもたちだけじゃなく、私自身もそうなんだなあ。」とも思い、「人間はやはり自らのことは自ら決めてこそ、本当の力がでるのだなあ。」とも思いましたね。
 いやいや人間は、ただご飯を食べていれば生きられる動物じゃあない。
 どうしても、「心」を食べなければ生きていけないんだなあとつくづく思ったしだいであります。
 
「楽(らく)」or「楽苦(らく)
 現代の多くの親たちは何とか自分の子どもたちに苦労をさせたくない、楽に生きさせてあげたいと願っています。そこで、いやと言うほど手を尽くそうとします。しかし、それが本当にその子たちにとって「楽」で、その子たちが望んでいることで、その子たちのためになることなのでしょうか?
 おそらく、いや絶対に違うでしょう。
 人間はどうも、自らの好奇心、自らの意志に従い、努力することこそ至上の「喜び」「楽しみ」としているように見受けられます。
 そこには多くの「苦しみ」や「困難」がもちろんあるわけで、端から見ていれば、どうしてそんなにつらいことをあえてやるのだろうと思うでしょう。ましてや親ならば心苦しくて仕方がないはずです。
 でも、そういった苦しさがあって始めて、楽しさがあるのではないかと若造の私は思ったりしてます・・・
 
           苦しさが あって始めて 楽がある

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