やまと通信     8月号
                                            Vol.39
〜 対 話 〜
 
 毎日暑い日々が続きます。そんななかでも、うちの塾生たちは部活に、遊びに、そして勉強に本気で取り組んでいるようです。一緒にいる私の方が楽しく、そして幸せな気分になってきます。
 さて、今月は「対話」についてです。
『第三文明』(2002,2月号)が「対話力」という特集だったので、興味が引かれ買っておいたのですが、最近まで読んでいませんでした。しかし、ある方の紹介で、平田オリザ(劇作家、演出家)さんの『対話のレッスン』という本を最近読んだことで、思い出したように先の雑誌を読んでみました。すると、大変興味深いことが多々書かれていて思わずやまと通信に書きたくなってしまった次第です。
 さて、早速その雑誌からの引用です。引用部は竹内敏晴(演出家)さんの論文で「言葉が心に届くとき」というものです。次の引用は、「現代の多く人たちのおしゃべりは、相手の言葉の端切れを捕まえ、そしてお互いに自分のことだけをしゃべる。つまり。それぞれがバラバラにしゃべっているので、これは「会話」であって「対話」では決してない」という前置きの続きです。
 
前略・・・対話というのは、相手と向き合い、話し合ってみて、分からないことにぶつかるところから始まるのです。・・・(中略)このとき、自分が持っていた思いこみが壊されるというか、自分で壊していかないと、相手の持っているイメージに、気づくことができません。自分の世界が壊されることを、私は「相手に突破される」といっています。
 「突破される」と言っても、一方的に、こちら側が突破されるわけではないんです。こちらがそういう苦労をしながら、自分の思いこみを作り変えていく作業をしていく時、相手も自分の思いこみに気づき、視界が変わっていくのです。・・・(中略)
 たとえば、登校拒否の子どもがいるとします。親や先生は、何とか学校に行かせようと、どれほど学校が楽しいかを語ったり、どういえば学校に行ってくれるだろうかと思案します。説得しようと一生懸命になるのです。
 しかし、対話と説得は違います。日本人には、一生懸命に説得しようとして、相手を忘れてしまいがちの例が多いようです。一生懸命に説得しようとしているとき、意識は自分の中の論理に向いている。厳しく言ってしまえば自己陶酔です。それでは相手を置き去りにしてしまいます。まず相手の立場に立って、想像してみることが出発点なのです。
「いま、こうして話しかけている自分は、子どもからは、どう見えているのだろう。」と考え、相手の言葉に耳を傾けるだけでなく、相手の体が語っていることに見入る。・・・その中で言葉を探っていくことで、新しい気づきに出会い、共に生きることを築いていく共同作業、すなわち”対話”が行われるのではないでしょうか。
 自分が相手の立場で生きてみようと集中しているか、説得に一生懸命になっているかは、からだにも表れます。一生懸命とは、自分が自分を駆り立てていることで、からだに力が入って硬くなり、反対に相手の身になって集中しているときは、からだから余分な力が抜けて柔らかくなっています。・・・(後略)
 
 みなさんどうでしょうか、ちゃんと子どもたちと「対話」をしていますか?おそらく多くの親は「説得」のみの毎日ではないでしょうか?毎日親も子もお互いにからだを硬くして、ただ自分の考え、思いを相手に押しつけていませんか?
 子どもに変わってほしかったら、親から、教師の方から変わらなければなりません。どう変わるべきか、それは相手の声を、心を見ようとすることが第一なのでしょう。それを怠り続けると、先日母親が中2の娘を殺してしまったような惨劇に繋がりかねません。生徒の何人かは、明らかに家で自分の意見を言わせてもらえず、そのはけ口を友達への嫌がらせに求めています。うちの子は違うと思わず、どうか今一度自分が子どもたちと接するときに、「説得」になっていないか、「からだが硬く」なっていないか、思い返してみてほしいと思います。

 

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