やまと通信

〜 言 葉 〜

2月号
Vol.45

 

 この時期になると、中3生は、受験校への志願理由書と推薦入試用の作文にかなり苦しめられます。小学校では何か行事をする度に作文を書かされますが、あまり本気で指導してくれる先生もいませんので、大変お粗末なまま中学生になります。さらに、困ったことに、中学校ではほとんど作文を書く機会もありませんし、小学校以上に作文指導もされません。ですから、受験生たちの作文のひどいことといったら、笑うことすらためらいたくなります。しかも、小学校の時のような作文とは違い、実際の出来事を文章にするだけではなく、自分の気持ちも表現していかなければなりません。
 ところが、少しずつ彼女たちのしてきたこと、そしてこれからしたいことを私がインタビュー形式で聞き出していき、それを箇条書きさせ、さらにそれらをふくらませていき、文章にしていきます。すると、劇的に文章が良くなっていきます。しかも、単に文章がよくなるということではとどまりません。何といってもこの作業の意義、醍醐味は、彼らが(おそらく)生まれて初めて自分というものを客観視し、それを文字にし、さらに自分の未来を(ほんの少しですが)デザインしているのです。これは本当に素敵な作業です。私も生徒たちもものすごくエネルギーのいる作業ですが、本当に大人になるためには必要な作業なのだと毎年思います。

言葉の役割
 さて、ここで「言葉」というものについて少し考えてみたいと思います。私たちは毎日当たり前のように「言葉」を使っています。ただ、毎日の平凡な生活の中では、主にお互いにコミュニケーションするためと、お互いの情報交換するためのみ使っていますよね。たしかに、それらは大変重要な「言葉」の使用法でしょうが、「言葉」にはもっと他にも重要な使用法があると思っています。それは、感情を「言葉」に表現することによって、その感情をおさめたり、より大きなものすることができること。また、「言葉」を使うことによって、「過去」と「未来」を作り出すことができることだと思います。また、それらにも関係してくるでしょうが、「言葉」を用いることによって自分というものを「客観視」することもできるようになるのです。
しかし、その能力が一部の現代人には欠けていると思わざるをえません。たとえば、いまここで犯罪を犯してしまえば、将来どうなるのかということを想像することはそう難しいことではないにもかかわらず、安易な犯罪が毎日行われています。また、未成年に関してですと、あまりにも安易に売春や麻薬に手を出してしまいます。これらも「言葉」によって過去を学び、未来を想像するという能力の欠如から来ていると思われます。
しかし、何ものにも良い面と悪い面があることは否めません。もちろん、「言葉」も例外ではありません。「言葉」によって先入観や差別感というものを私たちの中に作り上げますし、いじめやけんか、最終的には殺し合いや戦争をも引きおこし、しかも、それらを正当化してしまうことさえ「言葉」にはできてしまいます。
しかし、それらの負の面を差し引いても「言葉」というものはすばらしいものだと私は思うのです。

「言葉」を使うことと「生きること」
昨年の今頃も書きましたが、「書くこと(言葉を使う)」ということは「考えること」、そして「考えること」とは「生きること」に他ならないのだろうと思うのです。いま私たちのまわりには「言葉」が溢れています。しかし、それは「他人の言葉」です。いま私たちに必要なものはおそらく「自分の言葉」、さらには「自分の幸せ」なのだろうと思います。そして生徒のみなさんには何とか高校、大学などで「自分の言葉・幸せ探し」をし、その一片だけでも見つけてほしいですね。そのためにも「読書」と「書くこと」は欠かせないことなのだろうと思います。

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