やまと通信     8月号
                             Vol.51
〜 芋 粥(いもがゆ) 〜
 
 夏期講習も第1週目が終わりました。中学3年生にとっては、この夏休みが、受験の最大の山場です。この夏休みで頑張れなかった生徒は、直前になって大変苦労するか、自分の希望を捨てざるをえないことになります。また、単に高校の選択の幅が狭まるということにとどまらず、「受験」という大変貴重な体験を無駄にしてしまいます。
 大人になると、受験など比較にならないくらい大変なことがいくらでもあります。また、受験ほど大変ではないが、ちょっと頑張らなければならないということもたくさんあります。しかし、受験でもなんでもよいのですが、学生時代に、本当に苦しいことを、何とか乗り切ったという経験が、そういったときに生きてくるのだと思います。逆に言えば、受験ごとき頑張れないで、将来何を頑張れるのだろうかと思うのです。
 この通信でも過去に何度も申し上げていることですが、受験勉強の内容そのものも大変重要なものですが、受験勉強から学ぶことも多いと私は思っています。
 1日8時間以上という大変つらいものですが、何とかみんなで励まし合い、切磋琢磨して、この夏休みを乗り越えていきたいと思います。保護者の皆さんには、心身共に疲れ果てて帰ってくる生徒さん達をどうか暖かく励まし、おいしいものを食べさせてあげてほしいと思います。
 
 さて、今月は「毎月新聞」(佐藤雅彦 毎日新聞社)という面白い本からの引用を参考に、人間の難しさについて少し考えてみたいと思います。
(前略)その本とは芥川龍之介の「芋粥」である。ご存じのように「芋粥」では、五位と言う役職のさえない下級武士が、滅多に口にできない山芋の粥を飽きるほど飲んでみたい、とつぶやいたことから、金持ちの同僚が気まぐれを起こし、五位の目前で大量の芋粥を準備させ、さあ、とすすめるが、結局二杯をすするのもやっとで、芋粥を夢見ていたころの自分をうらやましくすら思う、という話だ。
 自分にとって大切にしていたものが、あまりに容易に、大量に手に入る状況になり、しかも、多少の義務感も生じてくると、好きどころか、そこから逃げだしたくなるという、ヒトの微妙な心理を絶妙に表現している。(中略)
 さらに、昨今、言われ続けている教育の退廃の問題にも、その裏の原因にこの「芋粥」が潜んでいる気がしてならない。
 ぼくの年老いた母は、いまだに言う。「私は、上の学校に行きたかった。でも、おばあちゃんが許してくれなかったのよ。いまはいいねえ。誰でも中学までは行けるんだから」。母の父親は20代で亡くなり、家は貧困を窮めていたという。母のような人間から見れば教育を受けさせてもらえることは、この上なくありがたいことではあるが、いまの義務教育をありがたいという意識で受けている中学生やその父兄はどのくらいいるだろうか。かく言う自分も、それについては言えた義理ではない。ずる休みを何回もしたくちである。
 義務だから学校へ行く。教科書や設備は当然ただで与えられるもの。そんな意識がみんなの中に少しでもあるとしたら、せっかくのこんなにありがたい教育制度も魅力のないものになってしまうのかもしれない。
 不思議なもので、どんな好きなことでも「義務」と名が付くと人間逃げだしたくなるものらしい。攻めて「義務教育」の義務に代わるいい名前ができると学校嫌いにも少しはいい影響があるかもしれない。根本的な解決ではないと言われそうではあるが、そんなことが現実では具体的な効果を生むことがある。(p30.31)
 
 本当に人間というものは、複雑な生き物ですね。長年抱いていた願望(芋粥)が実現すれば、願望を夢見ていたときの自分をうらやましく思ってしまったり、たかだか「義務」という2文字がついただけで、モチベーションが下がってしまったり…本当にどうすることがよいことで、幸せなのか難しいです。でも、最近は、ありふれたこの毎日、何事もなく子どもたちと過ごしている日々が大変幸せなときだなと思えるようになりました。感謝です。

 

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