やまと通信 4月号 やまと通信

〜 他 力 〜

4月号
Vol.107





春です。

春ってなんかいいですよね。明るくって、暖かくって、「さあ、何かを始めよう!!」「さあ、今年も頑張ろう!!」という気になりますね。

新しい試みとして春期講習を始めてみましたが、とてもよい感触です。なかなか家庭学習で理科と社会の復習をするのは難しいでしょうが、塾に来てもらえれば、集中してやりきってくれます。今年度はさらに「テスト会」も始めますし、定期テスト前の補習の仕組みも少し変更いたしますが、今から非常に楽しみです。今までもまあまあ成果は出せてきましたが、今年度はさらに大きく皆さんの成績を伸ばしてもらえるものと思います。ご期待下さい。


親鸞聖人

先日テレビで、高史明さんという方の番組を見ました。この方は、在日朝鮮人二世で、非常に苦労して育ったそうです。しかし、何とか努力し、作家や評論家として成功していきます。その自分の少年時代などの苦労などを顧みても、やはり生きていることはすばらしい、生きるべきだというようなことを若い世代や、自分の大事な一人息子に語るべく「生きることの意味ある少年のおいたち」(筑摩書房1975年)という本を出版します。しかし、何という皮肉でしょうか、その本が出版され、世の中で評価されると同時に、その大切な一人息子さんが12歳(中学1年生)という若さで自らこの世を去ってしまうのです。

高さんは、中学生になった息子さんに「これからは君は自分のことは自分で考えて行動しなさい。私が君のことについてとやかく言うことはもうない。その代わり君は自分の行動に対して全責任を負いなさい。」「他人には迷惑をかけてはならない。」というようなことを伝えたそうです。

しかし、高さんはこれらの言葉をとても後悔しているそうです。人間が道を歩けるのは、誰かが道を作ってくれたからだし、毎日ご飯が食べられるのも誰かが一生懸命に野菜などを作ってくれるからだと言うことに気がついたそうです。つまり、私たち人間は、あらゆる面で周りの人に頼っている(迷惑をかけている)存在であり、何か問題を起こしたとしても、それを一人だけの責任にするのではなく、まわりの人たちも含めてみんなでその責任を負っていく存在なのだと言うことです。

高さんはそのことを親鸞聖人の「歎異抄(たんにしょう)」と言う本に出逢い気がついたそうです。


自力と他力

実は私もここ1、2年で似たようなことを考えていました。それは、勉強にあまりやる気のない生徒さんに対して「勉強は誰のためにやってるんだい? 自分のためだろ?

だからもっともっと頑張りなさい。」というようなことを言っていました。その言葉の根底には、「君は誰のために生きているのではなく、自分自身のために生きているのだから、今のこの苦労や努力も自分自身のためのものなのだよ。」「しっかり勉強し、将来、人様に迷惑をかけなくてもすむように、今努力しなさい。」というものがあると思います。

しかし、人間は本当に自分のために生きているのでしょうか?
そして人様に迷惑をかけないことが本当に人間らしい生き方なのでしょうか?
私は本当に弱い普通の人間です。その私が何とかやまと学院.を9年間続けてこられたのは、自分のためだったのでしょうか?人様に迷惑をかけないためだったのでしょうか? 自分自身のことなのでさらによくわからないのですが、おそらく違うと思います。なかなか成果が出なくても文句も言わずに通わせていただける保護者の皆様、つたない授業ながらも毎週笑顔で通ってくれる生徒さんたち、そして家族や友人たちの存在。それらがなければ、とっくに私は堕落した人間になっていたと思います。つまり、人間はまわりの人たちに支えられて生きているのだと思いますし、自分自身よりもその支えてくれている人たちの方が大切で、その人たちのために生きているのではないでしょうか? ですから、勉強に意欲が出ない、さらには生きていることに意欲が持てないという若者たちには、「人のために生きてごらん。」「親や周りの人たちが喜ぶようなことをしてね。」「人は生きていれば迷惑をかけてしまうのはお互い様だよ。でもなるべくかけないようにね…」というようなことを言うのがよいのではないでしょうか? あっ、そういえばこのセリフ、夜回り先生こと水谷 修先生もおっしゃっていたなあ…




  やまと通信4月号